高麗人参の歴史の概要について

高麗人参と人体の健康との関係性の歴史は長く、特に中国においては紀元前にまで遡ることが、当時の書物に残された記録で明らかになっています。
また、日本には奈良時代に高麗人参が天皇への献上品としてもたらされ、長い年月を経た江戸時代になり、初めて国内での栽培に成功した歴史があります。
この記事では、高麗人参に関する世界での歴史の概要や、日本での伝来から栽培成功に至るまでの歴史についてご紹介します。

世界における高麗人参の歴史について

薬用に珍重した古代中国

高麗人参は、古代中国において貴重な薬草として用いられていた歴史があります。
伝説として、紀元前3世紀に中国で初の統一王朝を築いた始皇帝が、不老不死の薬として山に自生した高麗人参を求めさせ、常に飲用していたと伝えられています。
記録に残されているのは、紀元前1世紀ごろ、前漢の時代の著作とされる『急就章(きゅうしゅうしょう)』や『黄帝内経(こうていだいけい)』などの医学書が挙げられ、それらの中に高麗人参は強壮剤として用いられた記述が確認されています。
また、約2,000年前に著された中国最古の薬学書とされる『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』にも、高麗人参についての記述が、具体的な効能とともに見られます。
365種類の動植物や鉱物が薬として収録されたこの書物には、それぞれの薬効により上薬・中薬・下薬の3つに分けて記載がなされ、高麗人参は長期間つづけて服用しても副作用がない無毒な薬として、最上位である『上薬』に位置づけられています。
内臓の働きを補い、精神安定や動悸の鎮静に役立ち、長期にわたって服用すると延命の効果も期待できるといった内容が記されています。
このように、現存している医学書や薬学書に記録が残っていることから、高麗人参は先史時代から薬用として珍重されてきたと考えられているのです。

大航海時代にヨーロッパに伝来

少なくとも2,000年以上、一説には4,000年は歴史を持つと考えられている高麗人参の存在が世界に広まったのは、15世紀半ば以降の大航海時代とされています。
その当時に中国を訪れたフランス人の航海士たちが帰国の際に持ち帰り、欧州に広がっていったのが定説となっています。
フランスの思想家であるルソーの著作物には高麗人参が登場するほか、ロシアの著名な作家のゴーリキーなどが常用していたことで知られています。

日本における高麗人参の歴史について

日本に初めて高麗人参が伝わったのは奈良時代とされ、西暦739年に現在の中国東北部や朝鮮半島北部を支配していた渤海国の使者から、聖武天皇への贈答品としてもたらされたという史実があります。
その返礼として日本からは銀が贈られて以降、高麗人参と交換する形で貿易が長くつづけられることになります。
なお、同時期の日本で建設された正倉院には、当時の宝物とともに野生の高麗人参も保存されています。

近世における高麗人参の歴史

近世においては、1592年に朝鮮出兵をおこなった豊臣秀吉が、高麗人参の種を入手して持ち帰っています。
その後、秀吉に仕えた武将であり、希代の天才軍師として知られる黒田官兵衛は、引退後にこの種を使って高麗人参の栽培の研究に知力を注いだといいます。
しかし、高麗人参の栽培は非常に難しく、その試みは失敗に終わっています。
また、健康志向が強いことで知られ、高麗人参を愛飲していたと伝えられるのは江戸幕府を開いた徳川家康です。
30代~40代で寿命を迎えることも珍しくなかった当時としては長寿の、75歳まで存命した家康は、そのために200年もつづく安定した統治機構を築くことに成功したといえます。

江戸幕府8代の治世に高麗人参の栽培に成功

栽培が難しい高麗人参は、輸入をもっぱら朝鮮半島に依存しており、江戸時代には非常に高価な生薬として扱われていました。
江戸市中を中心に万能薬として人気が高まったものの、庶民には無縁の存在であり、人参を求めるために盗みを働いたり、娘を売ったりする親も現れています。
なお、輸入の対価とされた銀が国外へと大量流出していた問題に取り組んだのは、江戸幕府の8代将軍である徳川吉宗の治世で、国策として高麗人参の国内栽培への研究が本格的に開始されたのです。
吉宗は現在の長崎県を領有していた対馬藩に命じ、当時は朝鮮半島からの持ち出しが禁止されていた種と苗を入手させます。
これらを使い江戸の小石川御薬園などで栽培方法の研究がおこなわれ、日光御薬園において高麗人参の国内栽培が成功したのです。
国内栽培された種子は全国の藩に配布され、幕府によって高麗人参の栽培が推奨されたうえ、一般の希望者にも江戸で種子の販売がおこなわれました。
このように幕府主導で栽培が推奨されたことから、『御種人参(オタネニンジン)』の呼び名が生まれ、現在でも高麗人参の別名として使用されています。
日本各地で高麗人参が栽培されるようになってから、朝鮮半島からの輸入量は激減し、その対価に支払う『人参代往古銀』の鋳造も中止され、銀の流出問題も収束を迎えることとなったのです。